「さっき、廊下を、黒い影の人が数人走ってたの、見ましたよね?」
夜勤中に、そんな質問をされたことがある。その類の質問は珍しくない。そう訊いてきた後輩職員サイキ君は顔色が妙に悪かった、手が震えていた。おれには影の軍団が見えなかった。以前には近いものを見たことはあるのだが、それはこの、夜中の認知症棟という特殊な空間によってもたらされた幻影かもしれず、また長く生きていれば、不可思議な体験の一つや二つは持っているものだ。勤務中に金縛りになった職員もいた。
「あ!」
「ん?」
サイキ君は遠くの居室を指差した。もう震えはおさまっている。居室の開き戸は奥のベッドの端が見えるくらい開いていた。
「中に…」
駆けつけて、利用者さんに声をかけた。
反応はなかった。
…かなり昔のことなので、間違った点はあるかもしれない。もしかしたら、フィクションとして手を加え、過去のブログに書いているかもしれない。でも大体はそんな感じで、結局、どういうことかは今でもわかっていない。
覚えているのは、見た人間が怯えていたことと、妙に嫌な空気感だったこと、ぐらいか。
お迎えにも色々あるのかもしれない。
連れ去られた魂は一体、どうなるんだろう。認知症になっても、許されない罪があるのか。