徒然なるままに
昔々、刑罰の執行は見せ物でした。
おそらく国によっては、今でも執行の瞬間に被害者家族が立ち合ったり、執行に市民が参加したりといったこともあるかもしれません。
フーコーの著作だったかよく覚えていませんが、時代とともに刑罰は不可視化されてきたそうです。つまり、それは隠される性質のものとなり、事務的に処理されるようになったのです。
とはいえ、人間には変わることのない、変えることのできない歪な欲求、性があり、動き回れるスペースを常に探しています。
人は面倒な生き物で、理由を大切にします。何をするにしても、理由を求めます。できれば、人様に認められるような理由が欲しいのです。いちばん手っ取り早いそれは正義に裏打ちされたものです。正しさが担保されたら、あとはやりたい放題やれます。
話は変わりますが
成功者のスキャンダルは昔から庶民に愛されてきました。落差があればあるほど、いい。しかも今はネットがある。万人が意見を公表できるし、攻撃することもできる。ペンは剣より強い。SNSが走り出したら、どうせ誰にも止めることはできません。
有名人の炎上を見る度に、アテナイの陶片追放みたいだなと思います。目立つことに、とんでもないリスクがあるわけです。当時も民衆を焚きつけるような、週刊誌的な存在はいたのでしょうか。
才能は人々を魅了します。人と違うからです。フツーを超越しているからです。過去の天才たちは一般的に、変人ばかりです。倫理感の欠落した人も、たくさんいました。今の時代には許されない存在です。
あ
今回の騒動のことではありません。
あくまで、一般論。
今回のは、今日時点だと、時効と証拠が問題になってくるような気がします。社会的道義的な責任は…一方の訴えだけで決めつけてしまっていいのかどうか…被害があったら軽んじてはいけませんけれども…
個人的には、居眠りするセンセイや金に汚いセンセイを一掃してもらいたいので、芸能の醜聞にさほど怒りは湧かないし、むしろ番組を見てきたので残念です。