学歴はあるにこしたことはない。優秀な大学に合格したならば、勉強ができるということであり、当然、それ以下しか合格しなかった受験生より、勉強ができると評価される。
おめでとう、君は勉強ができる
学歴差別は今に始まったわけではなく、ずいぶん昔からあった。おれの記憶が正しければ、バブル期は、とりあえず大学ぐらいは行っておけという風潮で、偏差値が重視された。
余談だが、当時の日本は豊かで、遊ぶために大学に行く連中もいた。おれもそうだった。入学祝いで高級車を親からプレゼントされるような、羨ましい学生もいた。
今の人々は、とりあえず大学に行ったぐらいではどうにもならないことに気づいている。昔のほうが狂っていたように見えるのは、自分があまりにも幼稚で、愚かだったからだろうか。
とにかく、昔も、高学歴者は評価された。わかりやすい基準だし、実際、試験ができる人々の中には、頭の切れる人が多い。
勉強ができず、学歴のない人々の中にも、とんでもなく優秀な人材はいるけれど、それはよほどの勉強嫌いか、ちょっとした努力もできない変人であり、普通は頭の性能が良ければ、勉強ぐらいできてしまうものだ。
おれが四苦八苦して暗記した量を、おそらく頭のいい人は一瞬で覚えてしまう。勉強は積み重ねである。毎日同じ時間勉強しても、差は開く一方だ。
羨むか、妬むか、拗ねるか、諦めるか
いずれにせよ、勉強以外で勝負するしかあるまい。その土俵では確実に負けるわけで、頭の悪い自分を何とか生かすには、勝てそうな領域を探すしかないが、それはまた別の話…
学歴は勲章だったり属性だったり色々な使われ方をするけれど、生かせなければ、あまり意味はない。学生が学校を出て次に経験するのは、職業差別だからである。
社会は差別に満ちている
人はヒエラルキーを作り、認識する癖があるので、差別はなくなりようがない。学歴差別、職業差別を含む全ての差別は、差別する側に回ることができた人々の勝ち鬨である。負けたほうは爪でも噛むしかあるまい。
つまり、差別は勝ち負けの末に生まれるのだ。この競争社会では、学歴以外の基準でも差別は生まれる。
職業はもちろんのこと
ルックス、身長、所有物、パートナー、なんでも差別の対象
差別されたくなければ
完璧を目指さなければならない
凡人はどうせ何かで差別される
宿命である
この環から逃れるいちばん簡単な方法は、膨大な量の本を読破することだと個人的には思う。それにより知識量が増えるし、何より、物の見方や考え方が多面化、多角化、深化するに違いない(予想)
“あいつらよりマシ”
そう思って生きていくだけの人生も楽しいかもしれないが、所詮、何が正しいかは誰にもわからないし、これが正しいと断言することもできない。
何に縋るかは人それぞれだ