■序
昨日は早起きして、劇場版『鬼滅の刃』を観に行きました。
上映開始時間は8時台。その時間が空いていたもので。
子供の付き添いです。
正直に言いますと、ファンの皆様のような熱い想いは抱いていません。
とはいえ、アニメは全話視聴済で、コミックは1~6巻まで読んでいます。
20~22巻までも何とか買えたんですが、7~19巻が手に入らないので、読んでいません。
子供は学校から帰ってくると、1~6巻を繰り返し、繰り返し、貪るように読みます。
ブームってすごいですね。子供の頃の自分と重ね合わせて、こんなこともあったかなと思ったり(笑)
ただ、子供と映画に行ってその作品に満足したことはありません。
“ここたま”とか“プリキュア”とか、ほんと、きつかった…
プリキュアは勧善懲悪だから、プリキュアをアクションスターに変え、敵をテロリストにして、あとは舞台と設定をいじれば、そのままアクション映画になるんだけど、それでも全然…
あ、プリキュアファンの方がいたら、申し訳ございません。
ひねくれたおっさんの感想ということで。
世界の片隅で呟いているだけなので。
(ああ…そういえば、あの映画も…)
しかしたとえ映画がつまらなくても、子供と映画館に行ったこと自体は良い思い出です。映画を観ている子供の横顔を見るのが好きです。
■COMMENTS
劇場版『鬼滅の刃』はアニメの続きらしい。
らしい、と書いたのは、よくわかっていないからだが、アニメの最終話がプロローグになっている点は間違いない。
だから映画の世界にはすんなり入り込むことができた。
裏を返せば、原作やらアニメやらに触れたことがない人には、少々酷な映画である。映画は映画のみで独立しているわけではなく、他のメディアの延長線上にある。もちろんそれは良し悪しではなく、そういうタイプの作品というだけの話だ。もしぼくが原作を知らなかったら、おそらく楽しめなかっただろう。
◇ ◇ ◇
“無限列車編”なので、列車が舞台だ。
炭治郎をはじめとする鬼殺隊の面々は、ちょっとキ〇イ鬼の術で眠らされてしまう。鬼の手先となった少年少女らが、炭治郎らの夢に侵入して、意識の核の破壊を試みる。それを壊されたら廃人になる。“エルム街”的な展開である。フレディの出生もなかなかハードだったが、奴ももしかしたら鬼だったか…いや…
話を戻そう!
炭治郎の夢の中では、鬼に惨殺されたはずの家族が健在だ。グッとくるところではあったが、若干まどろっこしく感じられた。疾走感が欲しかった。背景の説明みたいに思えた。このままいったらきついな…と心配になったのだが、もちろんそれで終わるはずもなかった。
妹の禰豆子が目覚めた辺りから徐々にそれらしくなっていった。ぼくがこの作品に求めていたのは、“戦い”なのだ。今さらながら、劇場でそれに気づいた。少年漫画的なオーソドックスで熱い、それでいて悲しい戦いを見たかったのだ。“北斗の拳”とか“キン肉マン”とか“ブラック・エンジェル”とか、そんな漫画を読んでいたときの気持ちを思い出させる何か。よくよく考えれば、『鬼滅の刃』にはそれがある。
劇場版の軸となるのは、炎柱の煉獄杏寿郎だ。とてつもなく強く、いい奴で、使命を全うする。ぼくは己の人生を顧みて、すごく恥ずかしくなった。それほど、真っ当な漢だ。もっと活躍を見たかったが、まあ、それは言っても詮ないことか…
ともあれ、煉獄杏寿郎の強さ・正しさ・優しさはまっすぐで良かった。子供は善逸の居合をもっと見たかったようだが、満足していた。
いつの日か、彼氏と映画に行くんだろうな、と。ふと。