昔、食卓で読書していた父に違和感を覚えたこととがあった。あの日はサッシ越しの陽光が強く、父は後光に包まれ、光り輝いていて、目元は奥床しく、優しげで、観音様を思わせた。
父は数日後、くも膜下出血で急死した。仏様のところに行ったんだろうと解釈し、今に至る。
最近、父のそんな姿を思い出すことか増えた。己の最期を意識するようになったからだろう。
先日、日帰り温泉に行ったとき、旅館の敷地内で娘たちとの写真を妻に撮ってもらった。スマホで撮影されたその画像を見ると、自分の顔が自分のものではないように柔和だった。西からの陽を浴びて、掛け値なしに幸せそうだった。ただし、抗がん剤のせいか、想像以上に老け込んでいた。目元と目尻の皺は深く、好々爺然としていた。
ばりばりバイアスをかけて言うが、その画像の自分の笑顔は、あのときの父のそれに近かった。あるところに行き着いた、達した、終えた、安堵の一瞬。公平に言うならば、そう思いたいから、今、そう書いている。でもそう思いたいのだから、どうしようもない。人にどう思われようと、本人がそう思いたいなら、そう思う。人は思いたいように思い、見たいように見、否定するものを排除する。
とにかく、画像を見たときに考えたことは、父が行ったところに自分も行かれるかもしれないということだ。もし叶ったら、改めて感謝を伝え、背中でも流してあげたい。父には借りがある。
