極楽
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子供の頃、ふと思った。
たぶん、何かの本を読んでいて、南無阿弥陀仏を唱えれば誰でも極楽に行かれるという教えが、かなりのリアリティというか、パワーを持っていたことを知り、当時の庶民らは日々辛かったんだろうな、と。
ただ、大人になって、間違った解釈、いや、浅い捉え方をしていたことに気づいた。
自分は宗教学・仏教学に詳しくないので、単なる雑談として…
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苦しみから逃れるには、どうしても執着することをやめなければならない。執着を捨てることからも、自由にならなければならない。そのためには、修行が必要である。東洋哲学の多くは内省的であり、破格の経験値を要する。おれのような庶民には厳しい。敷居が高い。
しかし教団を立ち上げるような志の高い僧は、庶民の救済を本気で考えた。学のない民衆は小難しいことなど、理解できない。昔は識字率も低かった。僧はインテリであり、仏教は元々エリート層のために、国を護るために導入された。庶民のために使うには、カスタマイズしなければならない。
あ、そうだ!
偉いお坊さんは手を打った。
一点を見据えれば他は見えなくなる。
ならば、一点を見続けさせればよい。
そもそも、極楽というのは天国ではない。あの世など、あるわけがない。苦しみから解放された状態が極楽なのだ。ひたすら念仏を唱え、執着が見えなくなることで、無学な庶民でも、極楽に到達することができるのだ。
今はなんとなく、そんなふうに解釈しているが、ひたすら念仏を唱えることも、かなりの苦行である。
うちは代々時宗だが、踊り念仏のやり方は知らないし、たぶん一生しないだろう。
とはいえ、釈迦の教え・哲学はもしかしたら真理なのかもしれないとボンヤリ考える契機があったので、関係書籍を何冊か買って読んでみることにする。
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積まれた本の山、完登できる日がくるのか不安になってきた。哲学系はとりわけ難解で、楽しすぎる。