上空でクロール

雑記ブログ。目標は100000記事。書きたいときに書き、休みたいときは休む。線路は続くよ、どこまでも。

批判は自由なれど


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卑怯

というわけではないけれど、そういう言い方はどうなのかなという批判がある。

 

たとえば、大活躍の大谷翔平選手。

 

 

記事には、“もしこれまでの選手が二刀流をしていたら大谷並みの成績は残せたに違いない”といったことが書いてある。

メジャーは役割が細分化されている。通常、二刀流は認められない。許可されない。仮に、あの選手にも二刀流が許されていたならば…

 

もはや空想的悪意である

 

アンチ大谷の意見かよくわからんが、二刀流をしようという人がそもそもいたのか。細分化を疑いもなく受け入れていたのではないか。検証を要する。

 

仮定の話で大谷選手を貶めるのはよくない。大谷選手の成績は仮にの結果ではない。もし・仮に、の話を持ち出すべきではない。

 

 

大谷選手が二刀流をするとき、多くの人が非難した。パイオニアの苦労は、おれレベルでは理解できないが、想像はできる。きっと、才能だけではないはずだ。大谷選手の決断と活躍、態度は見ていて快い。勝手に抱く、アスリートの理想像そのものである。平たく言えば、漫画の主人公を超えた活躍を、現在進行形で体現しているのだ。まさに、生ける歴史だ。

 

歴史的事実が達成されるには機会・巡り合わせといった、個人にはどうにもならない要素も必要である。それを招き寄せた一握りの人間だけが、偉大な人物として名を残すのだ。そりゃ、おれだって、もし大谷選手並みの才能と性格を持って生まれてきていれば、大谷さんを超える成績ぐらいは残せたに違いない。