上空でクロール

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『ブラック・スネーク・モーン』2006年アメリカ / サミュエル・L・ジャクソン×クリスティーナ・リッチ / 監督・脚本 クレイグ・ブリュワー


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難しい映画である。

あえて簡単に言えば、アメリカ南部の片田舎を舞台にして、初老の農夫と、心を病む不良少女が友人になる物語。

そう書くと、なんとなく牧歌的なイメージを持たれるかもしれないが、それとは真逆な世界を想像してほしい。つまり、交接・暴力・喪失感。文学や映画が得意としてきたテーマだが、昨今は物語に光を求める方が多いようなので、本作品はあまり受け入れられないだろう。もちろん短い人生、あえて闇を直視する必要はないと思う。

映画好きには、本作品が案外、普通の物語に見えるかもしれないが、表向きは鋭く尖っている。そのくせ、時間の流れは南部的に(?)ゆっくりしていて、スリルとは無縁である。クリスティーナ・リッチの裸も、後半は出てこない。おいしいのは序盤だけだと思ってもらいたい。

クリスティーナ・リッチの演技には、虚飾を排した凄みがある。こういうのを、体当たりの演技と言うのかもしれない。
バッファロー'66』や『アダムス・ファミリー』とは違った彼女が見られるのは、確かだ。


クリスティーナ・リッチこと、レイは、誰とでも寝る女の子。発作的に男がほしくなり、我慢することができない。同棲中のロニーを愛しているが、“病気”が治る兆しはない。ロニーが入隊すると、パーティーでハメを外す。ロニーの友達をバカにして、ボコボコにされ、道に捨てられる。

一方、ラザラス(サミュエル・L・ジャクソン)は妻に捨てられた初老のおっさんである。妻は弟のもとに走った。弟が会いにくるが、許すことはできない。ラズ(ラザラス)は怒っている。

彼が道端に横たわるレイを発見したのは、まったくの偶然だった。レイは誰とでもしちゃう女の子として町では有名だが、ラズは知らなかったようだ。家に連れて帰り、介抱する。レイは幻覚を見たり、徘徊したりするが、徐々に回復する。

レイがセ○クス依存症であることはすぐにわかる。

身悶えして求めるのだ。ラズにはそれが悪魔に憑かれているように見える。レイを鎖でつなぐ。ラズは言う。

“君の命を助けたんだから、好きにさせてもらう”

目的はレイの心を治すこと。ラズは高らかに宣言する。

“主のように俺も辛抱する”

ラズは助平心を一切出さないで、真摯にレイと向き合う。それにより、妻の裏切りで傷ついた心は癒えていく。レイもラズとの交流を通して立ち直りを見せる。いつしか鎖は必要がないものになっていた。

そんなある日、ロニーが心的な要因で除隊になり、町に戻ってきた。レイが電話に出ないので、心配だ。家にも、レイの姿はない。ロニーはレイを探し回る。


ロニーはレイを愛していて、レイもまたロニーを愛している。